こんにちは、ほのぼの館長です ♪
今回より新連載【 月刊 平凡 】をスタートします ☆\(^o^)/☆
GOROに続く、昭和の雑誌シリーズの第2弾になります。
どうぞよろしくお願いいたします ☆
まず、【 月刊 平凡 】とはどんな雑誌だったのか説明します。
っていうか、平凡を知らない人っているのかな?(゚∇゚;)エッ!?
GOROは知らなくても、平凡とか明星って誰でも知ってますよね。
昭和の頃には、男女を問わずスーパーメジャーな芸能誌でした ♪
まさに王道の中の王道、私もコレで伊代ちゃんの出演番組をチェックしてました (//ω//)/
中・高生御用達の、昭和を代表する芸能誌として君臨していたんですよ~
具体的な内容は、人気アイドルの近況を写真付きで記事にしてる感じでした。
例えばですが、伊代ちゃんにインタビューして好きな食べ物とか(だいたいイチゴ^^)
好きな男性のタイプとか将来の夢などを聞いて、それに伊代ちゃんが答える記事。
雑誌側が、伊代ちゃんの好感度アップとファンが喜ぶようなアレンジを加え記事にします(笑)
様々な週刊誌が、アイドルの恋愛やスキャンダルに軸足を置いているのに対し、
平凡・明星は、あくまでもアイドル支持の立ち位置を貫きました。
アイドル側に味方し寄り添い、アイドル至上主義のスタンスだったんですね ♪
それと、忘れてならないのが付録の歌本!
歌本って、間違いなく人気の要因だったと思うんです ♪
実際に私も、大好きなサザンの曲を覚えるのに、この歌本を見ながら練習しまくってました~(笑)
特に桑田佳祐さんは発音が独特すぎて歌本がなかったら絶対むりだったんです\(^^; コラコラ!
平凡:HEIBON SONG、明星:YOUNG SONG
◆ 歴史 ◆
平凡は、大衆娯楽雑誌の原点ですから古い歴史があります。
終戦直後の1945年に創刊、当時の映画スターや人気歌手の記事で人気を博します。
特徴としては、一貫して芸能情報一筋、政治経済や世界情勢には全く触れません(笑)
1953年には、業界初の100万部突破!
更に1955年には、140万部突破となり出版業界の怪物と呼ばれます
戦後間もない貧しかった日本で、何故これほどまでに爆発的な人気となったのか考えてみました(*˘.˘*) ..。oO
" 平凡 ” が、第二次世界大戦を生き抜いた人々に受け入れられた理由・・・。
私の憶測ですが、戦争による貧困が " 平凡 ” を求め欲しがった理由なのだと思うのです。
テレビが普及する前の時代は、最大の娯楽といえば映画でした。
その映画では、主人公が自分たちと同じく戦争で身も心も傷つきながらも立ち上がり、
チャンスを掴んで幸せになっていくというサクセスストーリー
憧れのスターが、過酷な運命を乗り越え幸せになる物語に共感したんでしょう ♪
そう、当時のスターは「 戦争の傷跡」を共有していたからこそ受け入れられたのだと。
そんなスターのグラビアは、きっと最上級にキラキラ輝いて見えていたハズ
戦争の傷跡から這い上がるようにして生まれた " 平凡 ” は人々に夢と希望を与えていたんですね~ ♪
コチラが現在所有している月刊平凡で418冊あります
【 月刊 平凡 】は、今から35年前となる1987年に休刊になりました。
発行期間は、1945年11月から1987年8月までの42年間。
総発行数は、502冊でした。
どこもかしこも焼け野原で、誰もかれもが貧乏のどん底だった1945年の終戦。。
その終戦からたった3か月後の1945年11月に " 月刊 平凡 " は誕生しました。
一夜にして10万人以上が亡くなった、あの東京大空襲と同じ年なんです。
上の写真のように、見渡す限り焼け野原だった東京で平凡社は設立されました。
創業メンバーは7名、創業から1か月後に発行された創刊号は記録上では3万部。
今回は初回なので、創刊号から紹介したいところですが私は持っていません ((^_^;)
所有しているのは創刊から4年後の1949年からになります。
赤文字ロゴ(2列目)は1949年~1951年のものです。
今回は、1950年代に活躍した銀幕のスターを紹介します。
私が子供のころには、既にお母さん役か、お婆ちゃん役を演じていた女優さんたち。
そんな銀幕のスターさんの、若き日の美しいお姿をご覧くださいね~ ☆
原節子 当時31才
1951年12月号の表紙を飾った原節子さん(当時31才)
原節子さんは、日本映画史に燦然と輝くビックネーム。
日本映画 黄金時代のマドンナともいえる存在でした。
◆原節子さんの プロフィール
生年月日:1920年6月17日
身 長:165㎝
活動期間:1935年~1963年
代表作
【 わが青春に悔なし 】(1946年)黒澤明
【 青い山脈 】(1949年)今井正
【 晩秋 】(1949年)小津安二郎
【 東京物語】(1953年)小津安二郎
原節子さんは、ぱっと見はハーフかな?と思われがちですが正真正銘の日本人です。
1935年、15才の時に貧困で苦しんむ家族のため、通っていた高校を中退して女優になります。
学生時代は教員になる夢を持っていましたが、家族のために夢を諦めたんですね。
貧しい家族を養うために15才の少女が女優になって金を稼ぐ・・・すごい時代です。。
1935年、日活映画で女優デビュー ♪
1937年、日独合作映画【 新しき土】で主演を演じ銀幕のスターダムを駆け上がります。
以降、清潔感のある美貌と役柄により「 永遠の処女 」と世間から呼ばれていました。
ただ、その美貌が邪魔をして大根役者と呼ばれることもよくあったそうです。
原さんは、戦前から戦後の復興期、映画全盛期の巨匠たちの作品に数多く出演されています。
その名だたる巨匠の中でも小津安二郎監督は、原さんの一番の理解者だったようです。
ところが、、
1963年、その恩師である小津安二郎監督が亡くなったのを機に何も語らず銀幕を去ったのです。。
これが事実上の引退となり、その後は公の場に姿を現すことはありませんでした。
この時の彼女の年齢は42才、ここからミステリアスな隠居生活がはじまります。
家にこもって誰とも会おうとせず、外出も極力控えていたそうです。
1963年以降は、映画出演はもちろんメディアからの取材等も全て断り続けました。
といっても、当時の芸能人は住所を明かしていたため週刊誌等の隠し撮りはあったようです。
ただ、自ら取材に応じることは1度もなく沈黙を貫きました。
2015年、95歳で亡くなるまで生涯独身のまま隠居生活を送っていたようです。
そのため伝説の美女 原節子は、生き方までが伝説的になったんですね。
元々、人付き合いが好きではなかったのかも知れません。
そもそも、家族を貧困から救うために嫌々ながら女優になり、
大根と言われながらも努力を続け、やっと誰もが認める大女優になったのにあっさり引退。
彼女の親近者が、彼女の没後に謎だらけの隠居生活を様々な憶測で書かれています。
私は今回初めて原節子という人間の人となりを調べてみましたが、
知れば知るほどに、やりきれない切ない気持ちになりました。
誇り高き大女優のプライドが、幸せに生きることを邪魔したような気がして。。
だがしかーし、沈黙のまま半世紀が過ぎ、彼女が亡くなったと知ったとき世間は、、
テレビではニュース速報が流れ、新聞各社は1面もしくは号外を出されたんです!
そう、昭和を生きた人々は、銀幕のスター 原節子を忘れていなかったんです (>_<)ウウッ
では最後に、原節子さんの若き日の姿をご堪能くださいませ~ ♪
原節子さんにとって、人生そのものが長編の映画だったのかも知れませんね。
美しく清らかな " 永遠の処女 ” を全うされたのだと思います。。
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折原啓子 当時26才
昭和25年(1950年)3月号
1951年公開の大映映画【 湯の町情話 】
1953年公開の映画【 野戦看護婦 】
◆折原啓子 プロフィール
生年月日:1926年1月1日
活動期間:1946年~1985年(59歳没)
代 表 作 :花咲く家族(1947年)
1945年、大映第一期ニューフェイスに合格
美人女優として、約60本の映画で主役を演じ人気を博しました。
1951年、映画プロデューサーの三上訓利さんと結婚
因みに、元プロ野球選手の篠塚利夫さんは折原啓子さんのご義息なんです。
さらにさらに、、俳優の三上博史は甥になるそうです Σ( ̄ロ ̄|||) マジ!
篠塚利夫さんは、折原啓子の娘婿だそうです
でもって、、三上博史さんは折原啓子さんの甥なんですって!?
三上博史さんといえば、80年代のトレンディードラマでは引っ張りだこでしたね。
三上博史さんが徹子の部屋で話したエピソードですが、
俳優になりたての頃、伯母である折原恵子さん宅に遊びに行ったとき、
『 何やってんのアナタ?そんなもんやってて大丈夫?』と心配されたそうです(笑)
三上博史さんは、実の母親も東宝の女優さんで、2つ年上のお兄さんはミュージシャン、
叔父は映画プロデューサー、そして伯母が折原啓子さん!
めっちゃ芸能一家に生まれ育っていたんですね ( ^ ^ ♪
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桂木洋子 当時20才
昭和25年(1950年)12月号
1950年の映画【 薔薇合戦】共演者の若山セツ子さんと
引っ越し先の住所を、しかも番地まで載せて大丈夫なんでしょうか??
月刊平凡1951年12月号より
美空ひばりさん(当時14才)とたまたま電車が一緒だったようです。
桂木洋子さんは澄まし顔のブロマイドより、飾らないオフショットの方が素敵ですね ♪
桂木さんとひばりさんは、1951年の映画【 泣きぬれた人形】でも共演しています。
1951年の映画【 善魔 】、三國連太郎さんはこの映画で俳優デビュー ♪
この映画の役名「三國連太郎」をそのまま芸名にしています。
釣りバカ日誌のスーさんとは、だいぶイメージが違いますね(笑)
1955年の映画【花ひらく】では、佐野周二さんと共演。
佐野周二さんは、「クイズ100人に聞きました」の関口宏さんのお父さんです。
因みに、関口宏さんの奥様はコーヒールンバの西田佐知子さん ( ^ ^ ♪
◆桂木洋子さんの プロフィール
生年月日:1930年4月6日
身 長:163㎝
活動期間:1946年~1963年
1946年、松竹歌劇団2期生入団
1948年、松竹映画【 破壊 】池部良さんの相手役として映画デビュー
1953年、作曲家の黛敏郎さんと結婚
2007年、76歳で死去
代表作は、
【 晩春】(1949年)小津安二郎
【 破れ太鼓 】(1949年)木下恵介
【 醜聞】(1950年)黒澤明
【 薔薇合戦 】(1950年)成瀬巳喜男
【 日本の悲劇 】(1953年)木下恵介
小顔で華奢でスラッとしてて、銀幕のスターさんの中で一番タイプです ( ^ ^ ♪
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有馬稲子 当時20才
昭和33年(1958年)11月号
◆有馬稲子さんプロフィール
生年月日:1932年4月3日
身 長:158㎝
愛 称:ネコちゃん、おイネ
代 表 作:東京暮色
所 属:宝塚歌劇団 娘役トップ → 東宝 → 松竹看板女優 → ホリプロ
1949年、17才で宝塚歌劇団に入団・・・入団後は娘役トップとして活躍
1951年、19才で義母とふたりで暮らす一軒家を購入。
1953年、宝塚歌劇団を退団し、東宝の専属女優となる。
1954年、岸恵子さん久我美子さんと共に「 文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立。
1955年、松竹へ移籍し看板女優となります。
1961年、中村錦之助と結婚 → 離婚
1969年、河村三郎(実業家)と結婚 → 離婚
中村錦之助さんとの結婚はトップスター同士ということでかなり話題になったそうです。
当時の中村錦之助さんは ↓ こんな感じだったんです。
中村錦之助さんは歌舞伎界の御曹司でした。( のちの萬屋錦之助)
当時の有馬稲子さんは、美人の代名詞と呼ばれて凄い人気だったそうです。
月刊平凡にも有馬さんの記事がたくさん載っています。
左が有馬稲子さん、右は司葉子さん
左から 久我美子・岸恵子・有馬稲子、にんじんくらぶの3人ですね。
1963年、岸恵子さんが住んでいたパリのご自宅にて。
野球界のスターたちが招かれたときの様子です。・・・この時代にバブリーですね ♪
有馬稲子さんも、日本映画黄金期の大女優さんでした
だがしかーし、、その人生はかなり波乱万丈だったようです。
本人曰く、男運がなかったと・・・。
自伝「 バラと痛恨の日々」で衝撃の赤裸々告白をされています。
実は、中村錦之助さんと結婚する前、市川崑監督と泥沼愛憎劇があったそうです。
当時の状況を簡単に説明すると、
市川昆監督は既婚者でしたが、いずれ離婚するからと不倫関係が始まったそうで、、
当時22才の有馬さんはその後7年間もずるずると関係を引っ張られます。
その間には、妊娠・中絶も経験されています。
有馬さんが不倫を清算を決意し、中村錦之助さんとの結婚が決まっても、
市川崑監督は別れたくないと懇願し、だめなら不倫を暴露すると脅したそうです。。
これについては、数十年たった今も怒りが収まらないらしくメディアで話されています。
市川崑監督は映画界の超巨匠でありたくさんの優れた作品を世に送り出しました。
それだけに、有馬さんの赤裸々な告白には私も耳を疑いました。。
ま、映画監督と女優の関係って、今も昔も変わらないようですね \(^^; コラコラ!
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若尾文子 当時19才
昭和32年(1957年)4月号
◆若尾文子さんプロフィール
生年月日:1933年11月8日
身 長:155㎝
代 表 作 :十代の性典
1951年、大映ニューフェイス合格
1953年、自身の代表作「十代の性典」で主役を演じ大ヒット
1963年、デザイナー西舘宏幸さんと結婚、1969年離婚
1983年、建築家 黒川紀章さんと結婚
◆ 性典女優の汚名
「十代の性典」は記録的な大ヒットとなり、若尾文子さんもこの映画で人気を博しますが、
当時の時代背景から、ハレンチ扱いされ『 性典女優』と激しいバッシングを受けました。
そのため、若尾文子さんは「十代の性典」を封印してしまいます。
業界内でも若尾さんの前では " 性典 ” の2文字はNGワードとなっていたようです。
その後は、大映の看板女優となり260本以上の映画で主役を演じました。
◆「十代の性典」の内容
タイトルがちょっと気になって調べてみました (笑)
若尾文子さんがトラウマになるほど隠したかった理由が知りたくて。。
で、実際に観た感想は、、期待していた裸のシーンもほとんどなくてガッカリ (^_^;)
当時の十代の若者の繊細さや若さゆえの過ちを、丁寧にそして悲劇的に描いた作品でした。
私的には70年前の若者の生真面目さが分かって良かったです ♪
左から、市川雷蔵・若尾文子・勝新太郎。。(゚∇゚ ;)エッ!?
若尾文子さんはナショナルのイメージガールにもなってました。
月刊平凡には、こんな感じのレトロ家電の広告がたくさんあるので嬉しいです ♪
若尾文子映画祭のコマーシャル動画です。
※ 因みに、U-NEXTならば昔の映画がたくさん観れますよ~
私は無料トライアル31日間で観ています(笑)
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山本富士子 当時21才
昭和30年(1955年)8月号
平凡にもいろんな企画で出演されています。・・勝新さんオモロイ(笑)
ミス日本初代グランプリという経歴を持つ女優の山本富士子さんです。
約700人の候補の中から、満場一致でミス日本に選ばれグランプリ獲得
当時から頭抜けていたのがよく分かるエピソードです。
◆山本富士子さんプロフィール
生年月日:1931年12月11日
身 長:159㎝
愛 称:お富士さん
代 表 作 :黄金夜叉(1954年)、夜の河(1956年)
1950年、18才でミス日本グランプリを受賞。
受賞後、各映画会社からスカウトされますが、初めはその気が無かったため断り続けたそうです。
ところが、姉からの『 これからは、女性も仕事を持つようになるのよ』の一言で変わったらしい。
1950年(昭和25年)の頃の日本では、
男性は外で働き、女性は家庭を守るのが一般的でしたね。
逆に、女性が働くなんて・・など世間からうしろ指をさされる時代だったそうです。
なので、山本富士子さんのお姉さんは時代を先取っていたと言えます ♪
1953年、女優になると意思表示をすると、当時の大手映画会社による壮絶な争奪戦になり、
最終的に、大映が獲得し看板女優となったそうです。
契約内容は、
「 1本につき1年目が10万円、2年目が20万、3年目が30万で以降自由契約」
でしたが、この契約が守られることはなく他社の映画に出ることが出来なかったそうです。
1963年、ついに山本富士子さんは男気をみせ会社側と戦います!
会社(大映)を相手に、「年に大映2本、他社2本」の契約を主張しました。
本来なら、自由契約なので当然の権利なのですが、大映の社長がこれに激怒します。
山本富士子さんを解雇し、五社協定にかけると脅しました。
※ 五社協定とは(松竹・東宝・大映・新東宝・東映)が専属監督や俳優の引き抜きなどを
禁止する協定で、1971年には消滅しています。
この脅しは、今後二度と映画に出演できないという程の大きなものでした。
当時の周囲からは、謝罪するよう勧められましたが山本さんは一歩も怯むことはなかったようです。
世論を味方につけ真っ向勝負、
『 そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。
その方が生きがいがあるし、人間的でもある』と主張します。
・・・でも結局、当時の映画界はこれを許さず、映画界から完全に締め出してしまいます。
類稀なる美貌を持ちながらも、山本富士子さんは以降映画に復帰することはありませんでした。
その後はテレビに活路を見出し、ドラマ女優としてご活躍されました ☆
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高峰秀子 当時25才
1950年(昭和25年)9月号
1933年公開【 頬を寄すれば 】
戦前・戦後の日本映画の大女優さんの登場です ♪ ♪
無声映画の時代から子役として活躍し、300本以上の映画に出演したスーパーレジェント
◆高峰秀子さんプロフィール
生年月日:1924年3月27日
身 長:158㎝
愛 称:デコちゃん
代 表 作 :カルメン故郷に帰る(1951年)、二十四の瞳(1954年)、浮雲(1955年)
1929年(昭和4年)、松竹映画で5才で子役デビュー。
子役時代には天才子役スターとして名を馳せています。
年齢と共に子役から少女役・大人の女性・母親役まで半世紀にわたり活躍しました。
1955年、二十四の瞳の助監督 松山善三さんと結婚。
1979年、女優を引退しエッセイストとして活動。
2010年、肺がんにより死去(86歳没)
2014年、キネマ旬報の「 オールタイム・ベスト映画男優・女優」で女優部門の第1位獲得
左:小林トシ子、右:高峰秀子
高峰秀子さんは文筆家で沢山の本を残されていますが、
現代にも通用する内容で参考になります。
著名人になると多かれ少なかれ本を出版するんですね。
今回紹介している銀幕の女優さん達も、ほとんどの方が本を出版されています。
しかし、内容は業界のウラ話しや自慢話しが多くて読む気になれないものがほとんど。。
でも、高峰秀子さんと岸恵子さんの本はそういったタレント本とは別格なんです。
まず、高峰秀子さんは物事に対する考え方が潔くてカッコイイんです。
女優としてのプロ根性とか、割り切って役になりきるセルフコントロールとか、
ま、元祖カメレオン女優と言っていいと思います。
つまらないプライドを捨てられるか、自分の心に恥じない生き方が出来ているか、
周りに流されていないかを常に考えていて、潔い生き方のお手本のような方なんです。
因みに、高峰さんの数ある名著の中、私のおススメは「 わたしの渡世日記 」です。
人生の先輩の言葉はやっぱり重いんだなぁ~と感じられますよ~
ガチで面白い本ですし、ガチで泣きたい人にもおススメです(笑)
☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆
でもって~今回の大トリはこの方に決定!
岸恵子さん 当時20才
昭和29年(1954年)4月号
1953年【君の名は】は、記録的な大ヒット!
岸恵子さんは20才の時に、主役のヒロイン役を演じ松竹の看板女優になりました ♪
因みに、映画【君の名は】の興行収入は9億円を超えました。
当時の映画入場料が60円の時代に9億円ってスゴいですね (゚ロ゚;)スゴッ!?
映画【君の名は】で大流行した真知子巻き ※真知子とは岸恵子さんが演じたヒロインの役名
劇中で、岸恵子さんがあまりの寒さのためアドリブでストールを巻いたところ、、
多くの女性が真似したため社会現象となって「 真知子巻き」と呼ばれたそうです。
当時の人気のバロメーターとなるブロマイド売上げも、岸恵子さんは1位を記録しています。
岸さんの相手役は、松竹のトップスター佐田啓二さん ※中井貴一さんの実父です (゚∇゚ ;)エッ!?
父 佐田啓二さん・母 佐田益子さんの子供が、中井貴一さんと中井貴恵さんです。
平凡誌上では ↓ こんな感じでパロディー化されていました。
【君の名は】にはもう一つの伝説があります。
この物語は元々大ヒットしたラジオドラマで、1952年に毎週木曜夜8時の放送でした。
内容は、、
東京大空襲の夜、焼夷弾が降り注ぐ中、たまたま出合い戦火を逃げ切った男女の物語。
命からがら数奇屋橋まで辿り着いた真知子と春樹は、お互い生きていたら半年後、
だめならまた半年後、この橋で会う約束をしますが運命のいたずらですれ違い・・・というもの。。
このヤキモキ感、真知子と春樹の悲恋に、当時の女性たちが夢中になったそうです。
・・・で、伝説が生まれます。。
『 木曜8時に日本中の銭湯から女性が消える!? 』
そう、当時の女性たちがみな、ラジオの前に集結して聞き入ってしまったという事なんです(笑)
それから40年後の1991年にも同じような社会現象が起きてます。
" 月9" という言葉を生みだした、高視聴率ドラマ【 東京ラブストーリー】
こちらも、毎週月曜の9時に、日本中の繁華街から若者たちが一斉に消える現象。。でしたね ♪
映画「 早春」で共演した、松竹のトップ俳優 池部良さんと。
1954年、当時のスター女優3人(岸恵子・久我美子・有馬稲子)で独立し、
俳優のための映画製作会社「 文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立。
この時、岸恵子さんは22才、当時からただの美人女優では収まらない行動力がありました ♪
1957年、フランス人の医師で映画監督も手掛けるイヴ・シャンピ氏と結婚。
結婚後はパリに居を構え、女優業を続けるため日本を往復していたため、
当時は " 空飛ぶマダム ” と呼ばれ憧れの的となっていました w(*゚o゚*)w マジ
左が新郎のイヴ・シャンピ氏。
岸さんにとって、ハゲてるとかハゲてないとかは問題じゃないんですね(笑)
岸さんのご両親が写っていますが、両親とも生粋の日本人なんですね。
しかし、このウエディングドレスが似合うのは1957年の日本では岸さんだけかも?
今更ですが、、こんな昔にも、きれいな日本人っていたんですね ♪
・・・・それから60年の月日が流れ~・・・・
現在の岸恵子さんも凄いんです!
80才で出演してテレビ番組。。
恋に『 倫 』も『 不倫 』もない! (*^^*) カッケー(超爆)
岸さんが執筆した、「 わりなき恋 」がベストセラーになった頃ですね。
徹子の部屋に出演時
こちらは、2017年の出演時です。この時すでに85才です w(゚o゚)w オオー!
◆ 若い頃と現在を並べてみました~
いやーさすが銀幕のスターです!
現在は89歳になっていますが " オンナ ” として人生を謳歌しているようです。
美魔女が溢れるこの時代ではありますが、岸恵子さんはそのトップオブザトップ
岸恵子さん曰く、、
花の命はけっこう長いのよ。
たかが70歳ぐらいでオンナを降りてはいけないのよ。
もうトシだから、、と言った時点で人生は終わっちゃうのよ。・・・ですって(笑)
賛否両論あると思いますが、
岸恵子さんのような熟年層が増えると世の中が明るくなりますよね。
わたしは、岸恵子さんの話を聞いて気持ちが軽くなりました ♪
歳を取っていくことへの、モヤモヤっとした不安が一気にふっ飛びましたよ~ (☆゚∀゚) ♪
やっぱりそう、年齢を理由にするのは努力できないことへの言い訳でしかない。
諦めたら終るし諦めなければ道は必ずひらけるのだと思いました~ ☆
1950年代の映画スターは、本当に星のように輝いていた時代。
そんな時代から、クラスに普通にいるような子がテレビに出る現代まで。
時代の流れにも、年齢にも全く揺らぐことなく「 岸恵子」であり続けています。
岸さんの自伝を読むとわかりますが、とにかく凄い人生すぎて感動します。
昨年89才で出されたこの本は " 読むべき1冊 ” にも選ばれていて作家としての才能も凄いです。
見た目の美しさなど霞んでしまうほど、知的で行動力と決断力があるんですよ~☆
今年で卒寿(90才)を迎えられますが、
女優として作家として女として、今後もきらきら輝き続けるに違いない!!
これからの岸恵子さんに注目したいと思います ♪
以上、【 月刊平凡1950年代 前編 】でした (@^^)/~~~ ではまた~
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